ポーランド・フランスの旅(前編)

2007年08月07日〜16日


 2007年始め、今年は何処へ行こうか考えて居た。昨年のヨルダンが凄く良くて、シリア・レバノンを考えていたが、イスラエルのレバノン侵攻が有り変更した。
エールフランスは3年経つとマイルが消えてしまう。今年が2年半近く成っていたのでエールフランスを使う事で考え始めた。
 各旅行会社で価格を調べたが、AF本体から予約を取るのが一番安く、ネットから全ての予約を完了した。
 AF本体での予約は、席の指定も出来、Eチケットで空港での最終チェックインも飛行の30分前まで大丈夫。飛行の30時間前にはネットからチェックインが出来る。

 2007年08月07日
 夕方5時に会社を出て、新幹線、成田エキスプレスを乗り継ぎ、20時には成田第一ターミナルへ到着。
 Eチケット専用受け付けて荷物を預け出国審査を受けた。
 21時55分定刻にAF277はパリに向かって出発した。

 2007年08月08日
 現地早朝4時、定刻より少し早くシャルルドゴールFターミナルに到着。
その日のワルシャワへの便に乗り換えの為、案内板に従い、ターミナル移動のバスの出る入り口に移動。
 しかし、早朝過ぎてバスも動いて居ないし、人も居ない。煙草が吸いたくて喫煙室を探すが何処にも無い。
 仕方なく待合室で待つことにした。暫くすると、他の飛行機からの移動客が集まり出した。
 やっと朝6時近くに外をバスが動き始める。しかし、私達の待合室のゲートが開かない。6時20分頃、やっとゲートが開き、バスに乗る事が出来た。
 ターミナル2Bの出発待合室に行くが、此処にも喫煙室が無い。空港内は完全に禁煙になってしまったようだ。
 コーヒーショップでコーヒーを飲み、次の飛行機の出発時間を待つ。
 09時36分発のWAW行きのゲートオープンは1時間程前、荷物検査に人が並び始めたので後ろに着いた。
 しかし、これが大変、幾ら待ってもなかなか進まない、他の便も有るらしいのだが、検査台は2台のみ、出発10分前になっても未だ入れない。
 最後はもうフリーパスの様な通過に成って仕舞った。
 結局、飛行機は1時間ほど遅れてCDGを飛び立った。
 到着予定は11時55分だったが、ワルシャワに降りたのは13時過ぎていた。
 入国審査を済ませ、遂にポーランドに入った。ゲートを出て見ると、ターミナルの中に有るはずのレンタカー屋さんが無い…
 職員に聞いてみると、出てきたのは第2ターミナル、レンタカー屋さんは隣の第1ターミナルとの事。一旦ターミナルの外に出てみると、そこは喫煙自由!!24時間以上ぶりに煙草を吸うことが出来た。しかし、暫くはクラクラして仕舞った。
 隣の第一ターミナル到着ロビーに行くと、目的のレンタカー屋さんが有った。予約表を見せ、車の鍵を貰う、GPSも頼んでいたが、これが貼り付け型の物、職員が案内の言語は何が良いかと言うので、有れば日本語と言うと対応してくれた。
表示は英語だが、案内は日本語との事。全てを受取駐車場に向かった。
 駐車場で車を見つけ、荷物を載せて出発しようとして、サングラスが無い事に気付く。確か、新幹線に乗るときは持って居た。
 ふと、成田でリュックが全開で開いて居た事を思い出す…その時は慌てて財布を確認したが有ったので気にも止めなかった。
 とにかく無い物は仕方ないので車に乗り込みGPSをセットして出発した。
 確かに日本語で案内してくれるが、距離がマイルで話しかけられる。
 一回、良く分からず駐車場の前を1往復してしまった。
 それでも何とか案内に従い今日の目的地クラクフへ走り出した。ポーランドは殆ど高速道路は無く、300キロ近く離れたクラクフ迄も一般道。2車線の道は110キロ?1車線でもその位が制限なのか…とにかく良く分からずに走って行った。
 町の前で70キロの看板が出て、中心部では50キロ、その先にオービスの様なカメラが有ることが廻りの車の動きで分かった。
 町を出るときには70キロ解除看板が有るが、最高速度が出てこない。
 1車線の所では、遅い車が右に寄り追い越させてくれる。
何とか3時間半程でクラクフ市内に入る事が出来た。
 GPSは真直ぐに行けと言うが、前を見ると工事中で行けない。仕方なく道なりに走ると、ロータリーを左に行けとの指示。その通りに行くと、又Uターンさせられて元の道。又真直ぐに行けとの指示が出る。
 仕方ないので今度はロータリーを右に出た。暫くすると又GPSが指示を再開。何とか目的地のホテルに到着する事が出来た。
 駐車場の狭い隙間に駐車場の係員に手伝った貰い車を入れ、チェックインをして先ずはシャワーを浴びる。サッパリした所で着替えて再度荷物を全て点検するが、やはりサングラスが無い。
 仕方なく、旧市街へ徒歩で出掛けることにした。
 クラクフは14世紀後半から16世紀後半迄ポーランドの首都として機能した古都。
 此処は戦災を免れ、そのままの町並みが残って居る。
 中央広場には大きな教会等有る。とにかく夕飯をと思い、何とか食べる。
 食後、9時近いので水を購入しホテルに戻り、風呂に入って明日の為に寝た。

 2008年08月09日
 時差の為か6時過ぎに目が覚める、今回の目的アウシュビッツは日本人のガイドが居ると言うことで日本からメールを入れたが、午後2時に現地集合との連絡だったので早朝にクラクフ近郊のヴィエリチカと言う町に有る、岩塩採掘場に行くことにする。(ホテルから旧市街方向
 朝食を食べて、7時過ぎにGPSをセットして出発。30分程で町に入るが、今一つ場所が分からない。何とか8時前には鉱山駐車場に車を入れる事が出来た。
 世界遺産と成っているヴィリチカ岩塩採掘場は、ガイドによるツアーで人数が集まり次第出発する方式を取っている。ポーランド語は分からないので、チケット売り場で英語ガイドのツアーを申し込むと、ちょうど8時30分出発との事。購入して時間を待つ。
 時間になると放送が有り、入り口に集合、本日は16名でのツアーだった。
 入り口から長い木の階段を降り、地下深くに到着。
 そこから採掘場を進んでいく、途中幾つもの岩塩で出来た像が有る。昔の鉱山での労働方法展示有る
 ホール毎に現地ガイドが解説をしてくれる。とにかく中は寒い位だった。
 階段でどんどん地底深くに降りていく。(採掘跡(白雪姫))
 階段を降りると大きなホールが見えてくる。此処には岩塩の岩盤を掘った彫刻等が沢山有る。(これは最後の晩餐
 そして1時間30分程のツアーも最深部で終了。此処にはレストランも有る。

 この先、より深くに行くツアーも有ったが、私は戻ることにする。
 戻る人数が集まると、又、坑道を進んでいく、幾つかのドアを過ぎると最後に昇降機に、入れる人数は6−7人。乗るとガタゴトと上昇していく。
 数分で地上に出た。乗って居る途中に何処からか人声がしていたが、到着してみると自分達のリフトの上にもう一つ籠が有る。2階建てのリフトだった。
 外に出て見ると、早朝は大した人出は無かったが、順番待ちで人が溢れて居た。

 車に戻り、アウシュビッツへの道をGPSに入力、すると高速が有るらしく最速が出る。時間が有るので最短の道で再セット、走り出すととんでもない普通の住宅街の中を走らされた。クラクフからオシフェンチム迄は50キロ程、約1時間程で収容所跡に到着した。
 2時の約束までには2時間程有るので、インフォメーションセンターから中に入ってみる。此処は基本的には入場は無料だ。
 取り敢えず、道の反対側にお店が有るのでお昼を食べることにする。
 お昼を食べて1時過ぎにインフォメーションセンターの前の日陰でガイドさんを待つことにする。
 地球の歩き方に出ていた、日本人唯一の公認ガイドだ10人までは210zlで案内してくれる。1zlは日本円で約45円(当時)一人なら高いと思ったが…
 1時45分頃にガイドの中谷さんが現れた、今日の申込みは7人との事。最終的には6人が一緒に廻る事に成った。
 インフォメーションセンターを抜けるとそこは収容所跡地、沢山の国から人が訪れている。
 そして有名な入り口から中に入る。ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)の皮肉な看板を潜り、収容所内に入る。
 ポーランドではオシフェンチムと言う地名だが、ドイツ軍がドイツ語のアウシュビッツと改名、此処にヨーロッパ中からユダヤ人、ナチスに抵抗する者、共産主義者、ロマ、同性愛者等が送り込まれて来た。
 別名、絶滅収容所、しかし、時が経ち、収容者達が植えた木も大きくなり、建物の並ぶ様はとても収容所とは感じられない。
 建物の中は撮影禁止だが、中には鞄、人毛、靴などが置かれている。
 凄まじい数の物だが、これは終戦時に残ったほんの僅かだそうだ。
 政治犯等が銃殺された壁も有る、此処は祈る人、花束が途切れることが無いそうだ。
 収容所らしいのは高電圧を通していた有刺鉄線の塀
 奥に見える白い建物が収容所所長ヒムラーの家、そしてその手前左にはヒムラーが絞首刑になった絞首台が有る。
 その横にはガス室がそのまま保存されている、ガス室の隣は焼却炉、多くの人間が動きも取れない程の部屋に押し込まれ、ガスで殺され、直ぐに焼却していたそうだ。
その、作業に当たったのは収容者、ナチスの戦争犯罪の証拠は殆ど残って居ない。
 一部収容者が必死で撮った写真だけが当時の姿を写している。
 第一収容所からバスに乗り、第二収容所のビルケナウに移動する。
 ここは貨車で運ばれた囚人が最後に辿り着く所。貨車の先頭から入り口迄は凄く距離が有る。ここで降ろされた収容者は軍医により選別され、直ぐにガス室送りと一旦収容所に入れられる者に分けられた。ガス室は終戦時ドイツ軍が証拠隠滅の為破壊していった。
広大な敷地に右側は早い時期に作られたので煉瓦造りだが、左側は木造の建物になり、終戦後燃料の不足により、住民の薪として使用され、煙突だけが並んでいる。
 残って居る収容所内部女性用トイレ
、この場所にはアンネ・フランクも居たそうだ。(死の門、死の門から線路を見る
 こうして3時間近いツアーは終了した。ソ連により解放される迄、百数十万人が殺された場所は今、現実味無くそこに有る。
 日本軍も戦時中に同じ罪を犯しているのかも知れない、ここには戦争の愚かさが現れている。
 本当に美しい国日本にしたいのなら、平和憲法の大切さをよく考えた方が良いと考えた。
 自国の犯罪を謝罪し続ける国と、何も無かった様に誤魔化し続けた国の現在の他の国への発言力の違いも重要だ。

 バスで第一収容所に戻り、一緒に廻った東京から来た東大生とミュンヘンに住む女性をクラクフ迄乗せて行く事にした。
 東大生は1ヶ月程パリから旅行してきて明日が帰国、ミュンヘン在住の女性は留学で1年ほど住んで居るとの事だった。
 クラクフ駅近くがホテルと言う事で、降ろす間際、東大生が一緒に夕飯を食べようと言ったので、7時半に中央広場で待ち合わせをした。
 自分のホテルに車を入れ、シャワーを浴びて待ち合わせ場所に行き、ポーランド料理を食べて10時近くに分かれた。
 ホテルに帰り、風呂に入り11時過ぎに就寝した。

08月10日
 朝7時起床、朝食を食べてクラクフ旧市街を見に行く、10時前に戻りホテルをチェックアウト。一路ワルシャワを目指す、GPSに空港をセット、7号線で最初の給油、その後来た道の途中で左に入れと指示が有る。
 おかしいなと思いつつ指示に従うと、田舎道に入って行った。
 車の通りは少なく、不安な気持ちを持ちつつ走り続けた。途中どしゃ降りの雨に遭ったりしながら、何とか15時頃空港側に到着、そこの進入経路も工事中で入れず、又、迂回しながら7号線に戻った。
 ワルシャワ手前で最後の給油をして走り出すが、市内に入っていく、再度GPSを空港にセットして空港駐車場に戻った。
 車を返却し、バスにてワルシャワ中心部に向かう。17時過ぎに中央駅前に到着、本日のホテルにチェックインした。
 ワルシャワはホテルマリオットワルシャワ、部屋も凄く綺麗で快適だ。ホテルはワルシャワ中央駅前、LOTのビルの24階から上が客室になって居る。
 荷物を入れ、早速降りてみる、先ずはラウンジでエスプレッソを注文する。暫くするともう一杯居るかと聞かれ、えっ、おかわりOKなのと思い注文すると…やはり追加料金が派生した。
 それから、ワルシャワ中央駅を見にホテルを出る。地下道で入るとそこは薄暗く、地下の商店街が並んで居る。案内書には中央駅は治安が悪いと書いて有ったが、確かに見た目の雰囲気は少し恐い。
 しかし、そこら中にガードマンが巡回、見張りをしていて結構安心できた。地下街の下にホームが有った。
 とにかく夕飯を食べようと地下街を廻り、中華料理屋が有ったので入り夕飯を食べた。その後スーパーで水と御菓子を買い部屋に戻り風呂に入って寝た。

08月11日
 朝、7時起床、先ずは朝食を食べに降りる、ホテルの部屋は禁煙部屋なので、一旦外に出て煙草を吸う。
 朝食終了後、9時よりワルシャワ見学に歩き出す。まだ、早い時間で人はそれ程歩いていない。
 中央駅を潜り中心部に向かう、先ず最初にシナゴーグに行く。時間が早く入れない。
 それから直ぐ側の教会に行くと、そこにはヨハネパウロ二世の像が有った。そこで韓国人の青年が写真を撮ってくれとの事でお互いに撮りあう。
 今度は北上しサスキ公園に有る無名戦士の墓に、そこから国立オペラ劇場を通り過ぎ、クラシンスキ公園の横を通り、ワルシャワゲットー記念碑を見て、クランシスキ公園に戻り、宮殿の前を通過、此処では何かの撮影をしていた。そこを出ると直ぐにワルシャワ蜂起記念碑が有った。
 そしていよいよ世界遺産のワルシャワ旧市街に入って行った。此処は第二次世界大戦のワルシャワ市街戦で徹底的に破壊された街を、戦後、住民等の協力により壁のシミに至るまで完全復元をした街だ。ここで、ワルシャワ歴史博物館を見る、入り口は小さく、大した事が無いように見えたが、建物の中に入ると複雑に入り組み、見応えの有る博物館だった。
 その後、城壁を一旦出て、キュリー夫人博物館に行くが休館?側のアイスクリーム屋さんでソフトクリームを食べる。売り子の女の子が可愛かった!!
 再度旧市街から旧王宮前を通り中央駅方向に戻る、この時点で12時近く。
 広い通りは歩行者専用日らしく車は走って居ない。最初に聖アンナ教会、次が大統領官邸、その先にはワルシャワ大学、そしてポーランド科学アカデミー(スタシッツ宮殿)(前の像はコペルニクス)、そしてワルシャワ・ボヴィシレ駅側にはショパン博物館、(クラシックに興味が無いのであまり面白く無かった…)、その直ぐ側には音楽学校が有るようで、日本人女性2人とすれ違った。
 その後大通りを渡り、国立博物館と軍事博物館を見て引き返す。隣には旧ポーランド統一労働党本部(現在は証券取引所)が有った。
又、道を渡りワルシャワ中央駅方向に、此処にはソ連時代にスターリンが贈った文化科学宮殿が有る。本によれば、高層建築の少なかった時代、地上37階の建物は評判が悪く、ソ連が建てたワルシャワの墓標と言われて居たそうだ。しかし、今は、廻りに高層建築の建物が出来、完全な目印としては機能していない気がする。
 文化科学宮殿の前に地下にスーパーが有り、そこでパンと水を買い、文化科学宮殿下でお昼とした。
 文化科学宮殿には展望台が有り、エレベーターで上がれるので登ってみた。
 正面に見えるのが、私の泊まって居るホテルと、右下がワルシャワ中央駅。遠く赤い屋根が旧市街。
 此処で3時を過ぎていた。駅側のショッピングセンターも広くて凄い、流石に歩き疲れたので一旦ホテルに戻った。
 夕方6時過ぎに先程行ったショッピングセンターの中に有る店に夕飯を食べに行く。
 ワルシャワ中央駅地上部分から地下におりホテルの戻った。
 ワルシャワはさほど大きくない街で、やはりクラクフ旧市街をもう少し見ておくべきだったと後悔した。

08月12日
 ワルシャワ最後の日、飛行機は12時45分、朝食を食べて駅前を散策、荷物を纏めてバスで10時過ぎに空港に向かう。
 空港到着してAF2047にチェックイン、荷物を預けて出国審査を受けて場内に。こうしてポーランドを予定時刻に離陸した。
 15時10分定刻に飛行機はシャルルドゴール空港に到着、2Bターミナルで入国審査、前に比べるとフランスも一応パスポートをちゃんと確認している。(相変わらずスタンプは頼んで押して貰う)
 荷物を受け取りに外を見ると知人が迎えに来ていた。
 早速外に出て、パリ19区の知人宅に向かった。知人宅では蕎麦をご馳走になり、その後自転車でパリ中心部に出掛けた
セーヌ右岸からサンジェルマンデプレへ出た所で激しい夕立に遭う、暫く雨宿りをしていると直ぐに雨は通り過ぎて行った。
 パリでは今年から貸し自転車をやっており、結構皆利用している。自転車で廻ってみると本当に手頃な交通機関だ。
 サン・シュルビス教会でドラクロワの壁画を鑑賞、此処はダビンチコードにも出たそうだが…覚えていなかった。
 その後、右岸に戻りルーブルの横を走り、サンドニ門を潜り、サン・マルタン運河沿いを北上し、ビレットの所から戻って家に帰った。
 夕飯は鳥スキを食べさせて貰い貸して貰った部屋で眠りに就いた。

後編フランスの田舎に続く

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