レバノン共和国旅行(後編)
2010年7月27日〜08月01日

2010年07月30日(金)
朝7時起床、8時に朝食を食べ準備をしてハサンをロビーで待つ。
9時過ぎにハサンが現れフロントの女性と楽しそうに話をしている。
ゆっくり休めたか聞かれ、十分に眠れたと話していよいよビブロスに向けて出発した。

車はベイルートの郊外を目指して走り出した。道はさほど混んでいない。
やはり金曜日で休みなのかと聞くと、ベイルートはキリスト教徒が多く、金曜礼拝では無いので休みでは無いとの事だった。
道にはサウジアラビアのサウード国王とシリアのアサド大統領、レバノンの大統領、首相の絵が大きく飾られて居た。

港近くでは軍のヘリコプターが編隊を組んで飛行している。
今日は軍の何かがあるのか?聞くとサウード国王とアサド大統領がレバノンに来るとの事だった。

ベイルートから数十分で最初の目的地、ジュニエ(ハリッサ)のマロン派の教会に到着した。
場所は海抜600m付近、上がって行くときから頂上付近は霧に覆われていた。

教会の前の駐車場に車を止めて、レバノンの聖母を上に上がって行くが…足下から廻りを見ても霧しか見えない。
10分程待って見たが、一向に霧が晴れる気配が無いので、仕方無く降りて行った。
教会を見て廻り、車に戻るとハサンがロープウェーで降りるかと聞かれ、行って見るが…やはり霧で運行停止中。
仕方無く車に戻り元来た道を下りだした。途中、ロープウェーは動き出して居た。

そこから走ること30分程で、いよいよ今日の目的地ビブロス(ジュベイル)の街に到着した。

ビブロスは紀元前3000年前頃に地中海交易で栄えたフェニキアが世界でも最も古い都市国家を建設した場所。
世界中で使われている聖書を意味するバイブルはこのビブロスから来ている。ビブロスのギリシャ名はパピルス。
すなわち書物を表し、地名が呼び名になったそうだ。

車を止め、お土産屋にまず入る、ここは魚の化石が有名だそうで、説明を聞いて出て仕舞った。

遺跡の入口十字軍の砦から入って行く。中は資料館に成って居る。
城壁から見えるのはヒクソス時代の城壁跡。一通り説明が終わるとハサンは入口で待って居ると出て行った。

ここからまた一人でブラブラと遺跡を見て廻った。
先ずはオベリスク神殿、とにかく人も少なくゆっくりと見て回れる。場所場所に説明板がある。


地中海を背に遠い昔を考えて見るが何とも凄すぎるが感想だった。遠くに見えるのがフェニキア時代の港
1時間ほど見て廻り入口に戻るとハサンが昼食前にスークを見てきたら、と言われスークの中を見て廻るがさほど大きいスークでは無かった。

そして入口近くのレストランで本日の昼食食べた
その後、プシャーレのホテルで買った絵葉書を昨夜書いて投函しようとしてホテルで切手が有るか聞いたが無いとの事で、ハサンに確認したところお土産屋に有るからと言われた。
お土産屋に入り切手を購入する。
するとお土産屋が古銭を出して来て買わないかと並べだした。興味は有るが…
その時たまたま日本から電話が入り、その場を逃げ出した。絵葉書を投函してハサンの所に戻った。
一応、これで観光は終わりだが、どうする?と言われ、近くに有る1115年建設のマロン派の
聖ヨハネ教会だけ見てくると行って見学に行って来た。

ビブロス見学が終わり、ベイルートに戻る。

2時過ぎにホテルの到着、明日は14時迎えに来ると言われハサンと別れた。

本来の行程表では最終日午前中が観光に成って居たが、かえって午前中フリーでレイトチェックにしてあるので楽だと感じた。

ホテルで一休みしたが、まだ時間は早い、旧市街までそんなにかからないと言われて居たので出掛ける事にした。

ホテルから坂を上がり、ハムラ通りを通り越し旧市街エトワール広場を目指す。

上り坂を上がりきると兵士が居たので道を聞くが言葉が分からないと言われた。
何とか見当をつけて坂を下ると、そこはエトワール広場だった。レバノン内戦時に壊滅的な被害を受けた場所だが、今は綺麗に修復されて高級店が軒を連ねている。

とても近代的な街に変貌しているが、まだ再開発の途中だ。 

街の中に旧ローマ遺跡が残って居る。その横にはムハンマド・アーミン・モスク
そしてモスクの横には白い大きなテントが建って居る。ここがハリーリ前首相が暗殺された現場でハリーリ前首相の遺体が安置されている。
奥にはその時犠牲になった人も祀られている。
中には管理の人しか居なかったが、祭壇からビデオカメラがこちらを撮影していた。

外に出るとが有った。よく見ると銃弾跡が有るようだ。

ベイルートは現在修復作業が続いていて綺麗な街になって居る。確かにエトワール広場を見ると中東のパリと言われることが納得出来る。
ここから海岸通りを目指して又歩き出した。(やはり建築中の場所
インターコンチネンタル・フェニキア・ベイルートホテルの後ろには旧ホリデーインの廃墟がそのまま残って居る。

幾つか大きな建物に内戦等の傷跡の様な廃墟も確かにまだ有る。

しかし海岸通り(コルニーシュ)を見る限り、現在は平穏な生活を送る市民が沢山歩いて居る。(地中海)(歩いた地図(黒い線)
何とかホテルには18時過ぎに戻った。その後、前日と違う場所で夕飯を食べようと出掛けるが、昨日と同じ店に店員に呼びかけられ入った。
ボンゴレとレバノンサラダを頼んで待って居ると、サラダの後に出てきたのはミートソース…お店で結婚式をやって居て厨房が忙しく、これで勘弁してくれと言われた。
仕方無くミートソースを食べてホテルに戻った。
流石に歩き疲れて風呂に入りテレビを見ているとアルジャジーラがサウード国王とアサド大統領の訪問をニュースで流して居た。
チャンネルを変えるとアラブのMTVの様な番組が、そこに私がCDを持って居る中に出てくる歌手が出てCDの中に入っている歌を歌って居た。

11時過ぎ遂に電気を消してレバノン最後の夜を終えた。


07月31日(土)
朝7時過ぎに起床。暫くボンヤリとして外を眺める。8時過ぎに朝食をとり部屋に戻りどうするか考える。
9時過ぎにお土産を買って居ないのでハムラ通りに出掛ける。
まだ時間が早く、これから店を開ける準備をしているところ。昨日通ったときに閉まっていた観光案内所に行ってみる。
しかし、たいした資料は置いていなかった。

レバノンは資源等は少なく、地場の物は少ない。ハムラ通りのお店も日本にも有るようなお店が多くて入る気にならない。
何とかお土産屋を見つけて入るが、これがレバノンというお土産が無い。
結局、ハムラ通りを3往復位してみたが…最後はCOOPに入り会社へのお土産を何とか購入出来た。
軽いお昼を食べたはずだが…覚えて居ない。
ホテルに帰り1時前にお風呂に入り、荷物をパッキングして1時半にフロントに降りてチェックアウトした。

そこで、フロントの女性から私の名前を書いて欲しいと頼まれた。
チェックインした時にサインをした漢字が珍しく、書いてくれとの事。名前はマリアンヌ。
先ずはカタカナで書くと、私のサインを指してこれと言われる。日本語は表意文字だと説明が出来ない…
結局、真理杏と書いて、ご免なさいヌが無いけどと許して貰った。

14時なりハサンが到着して、いよいよ最後の観光に出発した。

最初に行ったのは鳩の岩、二日間見ながら食事をしているので何とも…写真だけとり次に移動した。

次に向かったのが国立博物館。ここはレバノン中で出土して物が展示されている。
1段目の二枚目はビブロスで発掘された青銅の兵士像

 

この博物館で初めて日本人に会った。一人と話すと今日着いたところで時差惚けで眠いと言っていた。
あと3人程が日本人と思うが話はしなかった。

15時に博物館のビデオが上映されると言うので見に行くと、レバノン内戦中の博物館保存の努力が映し出されて居た。
写真の石棺もコンクリートで覆い保護されて居た。終戦後全て元に戻したそうだ。入口の階段も内戦中はボロボロになっていた。

見学を終わり外に止めてあった車に戻ると、ハサンがの廻りをウロウロしている。
何事かと覗いて見ると。なんと右フロントのタイヤがパンクしていた。何か滑稽な程ハサンが慌てている。
後部座席から緊急タイヤを出してジャッキを入れるがなかなか廻せない。見かねて私が手伝って何とか交換するが…
緊急タイヤにも空気があまり入っていない状態だった。

とにかく近所にスタンドがないか走り出す。ハザードを点けてのノロノロ走行。
直ぐにスタンドは見つかったが、エアーがあまり出ない。店の人間が裏にタイヤ屋が有るからそちらに廻れと指示された。
裏に回ると小さいタイヤ屋さんが有り、そこでパンク修理をして貰うが日本ではもうあまり見ない久しぶりのパンク修理だった。
タイヤの所に座って居る子供もちゃんと働いて居て。ハサンが支払いをするとちゃんと子供にも親方?からお金が渡されていた。
修理を見て居る間に道の両端を撮影していると従業員からここは撮影は駄目だと言われた。
確かによく見ると片側は軍の施設、もう片方の国旗が有るところは警察署だった。

何とか無事修理が終わり、最後の場所に行くことになるが、そこは旧市街。
ハリーリー前首相霊廟は見たし、旧市街も見たしと話して居ると、昨日、ここまで歩いたことにハサンが驚いて居た。
結局、見学は良いからコーヒーを飲んでちょっとゆっくりしたいと提案して、エトワール広場のカフェに入った。
私はエスプレッソとガトーショコラを頼んで暫くボッーとしていた。(ハサンは相変わらずメールに電話)

私達の横に女性が座っていたが、その女性はイヤホンで何かを聴いて居たが、突然歌い出したり話し出したり。
笑うことも出来ずに二人で顔を見合わせていた。
結局、ここの支払いはハサンが出してくれた。かなりパンクに参って居たようだ。
車に戻る為に歩き出すと、ハサンがさっきの女性は幽霊と話していたと笑い出した。

車に戻り、これで市内観光は終了で空港に向かうと言われた。
飛行機は20時45分だが3時間前に行くとの事。空港は直ぐなので5時前には到着した。
荷物を降ろしハサンにお礼を言い空港内に入って行った。

荷物チェックを受けてカウンターを探してウロウロするがまだ案内が出ていない。エミレーツの看板が有ったのでその前で待つことにする。
暫くすると係員が規制を始めたので一人前に居た人にエミレーツのドバイ行きか確認するとそうらしいと言われたので並んで待つことにする。
数分後にチェックインが始まった。荷物を預け出国審査に向かう。
審査場の前に出国カードが有るので書き込みをするが、やはりホテルの名前が必要だった。
しかし、もう帰るだけなので資料は全て預けた荷物の中…仕方無く審査場に並んで自分の番が来て行くと…
審査官がホテルの名前が無いと言い出した。持って居た地図を出してホテルの場所を示すが名前は出ていない。
他の審査官が来て最後はどうでもいいや的に出国となった。

時間が有るので免税店を見て廻るがお土産はドバイで買おうと思って居たので家族用のTシャツを買い。タワーレコードでアラブ音楽二枚を買って休むところを探した。
二階に上がるとかなり広い場所が有り、飲み物等も置いて有る。
あれ?と思い入口に戻って見ると、ここはビジネスクラス等のラウンジ、案内を見るとパスも書いて有るので受付の女性に見せると、何故かそのまま入れてくれた。
ここで軽い食事をして出発時間を待つ。

搭乗時間が近づいたのでゲートに向かうと沢山の人が待って居る。
搭乗開始になったがなかなか列が進まない。見ると搭乗券の確認の後にパスポートチェックが有り、そこで詰まって居た。
日本人の私はパスポートを見るだけで直ぐに搭乗できた。
出発時間は近づいて居たが、なかなか出発しない。まっ、あのチェックなら時間がかかるかなと考えて居たら。
機内放送で荷物検査の為に出発が30分から40分遅れるとの案内があった。
飛行機の外を見るとなにか人が沢山こちらを見て居る…
それでも結局50分の遅れで飛行機はドバイに向かって飛び立った。

08月01日(日)

結局、飛行機はほぼ1時間遅れでドバイ到着。
搭乗まで40分程しか時間が無い、搭乗ゲートを探して20分の時間が有るので免税店に走る。
何とか会社で食べるデーツだけは買ってゲートに戻るが、喫煙室は見つけられず。
そのまま搭乗して日本に向けて飛行機は飛び立った。

17時20分定刻通りに飛行機は関西空港に到着した。
入国審査を通り、荷物を受け取り次の羽田行きのチェックインに国内線に廻る。
荷物を預け一段落、19時15分のJALで羽田に向かう。
飛行機はA300…飛行機もCAも……
羽田に着陸するとき江戸川?か花火が上がって居るのが見えた。

無事に着陸して直ぐにモノレールに向かうが、illyのお店が有りエスプレッソを飲む。
帰国した日本は凄く蒸し暑い。
とにかくモノレールに乗り浜松町に、そこから東京駅に出て新幹線に乗り高崎に帰り着いた。

25時間近い旅でモノレール、山手線、新幹線…皆さんに迷惑を掛けた気がする。
何しろ風呂も入らずの旅なので…

さて、こうして今回のレバノンの旅も無事に終了した。

行く前は人にレバノンに行くと言うと、誘拐されるなとか治安は大丈夫なのかと心配された。
外務省の情報は(1)リタニ川〜ハスバイヤ南郊外以南の地域、各地のパレスチナ難民キャンプ及びトリポリ市渡航の延期をお勧めします。
ベイルートを含む地域(渡航の是非を検討して下さい)今でもそのままになって居るが。
旅行会社は正式申込時に危険地帯に行くので何か有っても会社には責任は有りません。
会社は説明して本人は納得して行きます。でサインさせられた。(メールだけのやりとりだから説明は受けていないw,まっ、全て承知だったのでサインした。)


実際に行って見ると怖さは感じない。
確かに武器を持った兵士が多くて最初は戸惑ったが、それも直ぐに慣れてしまった。(ただ兵隊か警察か民兵かは分からない)
内戦の傷跡も大分修復されて、それほど凄い戦闘が有った事を感じさせる場所は少なくなって居た。
特に危険とされるパレスチナ難民キャンプには近づきもしなかったし。(ベカー高原で一カ所それらしい所の横は通過したが)

レバノン等の情報はあまりにも少なすぎる、地球の歩き方にしても最低限の物しか出て居なかった。

今回も特別何かが有ったわけでも無く無事に旅行を終えることが出来た。
3泊5日の強行軍だから全てを見た訳でも無し。
ただ、帰国した翌日にはイスラエルとの国境で戦闘が有り、レバノン兵、記者、イスラエル兵が死亡したとの報道が有った。
その後は大規模な戦闘には発展していないようだが。
確かに1週間後の治安は誰にも分からない場所なのかも知れない。

でも結局人が生活している。日本で有ろうと他の場所で有ろうと事件事故は起きている。
それに遭うか遭わないかは時の運も有るだろう。

さて、次は何処に行こうか?


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